【寺尾聰の病気歴】穿孔性胃潰瘍で瀕死の重体に!復帰後にルビーの指環が大ヒットして話題に

『ルビーの指環』で有名な寺尾聰さん。

『ルビーの指環』をリリースされるまで、どのような活動をされていたのでしょうか。

また、大きな病気にもなっていますが、どのような症状だったのでしょうか。

この記事では、寺尾聰さんが『ルビーの指環』をリリースされるまでについてまとめました。

目次

【寺尾聰】1981年に『ルビーの指環』が大ヒット

寺尾聰 病気歴

歌手、そして俳優としても大活躍している寺尾聰さん。

どのような芸能活動を送っているのでしょうか。

年表がこちら
  • 1965年:カレッジ・フォーク・グループ『ザ・サベージ』を結成
  • 1968年:グループサウンズ『ザ・ホワイト・キックス』に参加
  •      映画『黒部の太陽』で俳優デビュー
  • 1970年:ソロアルバム『二人の風船/恋人と一緒に聴いて下さい』をリリース
  • 1981年:『ルビーの指環』をリリース
  • 2001年:映画『雨あがる』で『日本アカデミー賞』最優秀主演男優賞を受賞
  • 2005年:映画『半落ち』で『日本アカデミー賞』最優秀主演男優賞を受賞
  • 2008年:紫綬褒章を受章
  • 2018年:旭日小綬章を受賞

まず、寺尾聰さんは1965年から『ザ・サベージ』と『ザ・ホワイト・キックス』でグループ活動をします。

その後、1970年にはソロデビューをしました。

1981年に大ヒットした『ルビーの指環』は5枚目のシングルです。

寺尾聰 病気歴

『ルビーの指環』は大ヒットし、第23回日本レコード大賞を受賞しました。

その際に作詞賞、作曲賞、編曲賞の3タイトルを受賞しています。

3タイトルを独占したのは史上初で、2022年当時まで破られていません。

また、1981年の「第32回紅白歌合戦」にも初出場を果たしました。

【寺尾聰】穿孔性胃潰瘍で瀕死の重体に

寺尾聰 病気歴

しかし『ルビーの指環』をリリースする4年前の1977年、29歳の時に穿孔性胃潰瘍になってしまいます。

では穿孔性胃潰瘍とはどのような病気なのでしょうか。

胃潰瘍とは、胃液という強い酸の刺激によって、胃の組織が剥がれ落ち、内部からえぐられた状態をいいます。潰瘍の合併症の中で、最も厄介なのが穿孔です。激痛を伴って発症することが多く、緊急手術を必要とすることもあります。

引用:keijinkai-hp.net

寺尾聰さんは当時急に胃に痛みを感じて動けなくなり、自分で救急車を呼んだそうです。

その際4日間も意識不明となり、胃の80%を切除する手術を受けました。

体重が20キロも減少してしまうほど瀕死の重体になり、その後は東南アジアで療養しました。

海辺で仰向けになって日に焼いていると、傷口が良くなっていく気がした

そして退院後のリハビリ中に収入を得るため、寺尾聰さんは6曲ものデモテープをレコード会社に売り込みました。

食うために何か収入を得ないと……

このデモテープの中に『ルビーの指環』が入っていたそうです。

【寺尾聰】ルビーの指輪の誕生秘話とは

寺尾聰 病気歴

『ルビーの指環』は当初、これほど売れるとは誰も予想していませんでした。

事務所・専務

こんなお経みたいな曲が売れるわけがない!

ただ、当時の社長である石原裕次郎さんの「まぁいいじゃないの!」という一言でレコード化が決定しました。

寺尾聰 病気歴

そしてもう一人、『ルビーの指環』が売れると確信している人がいました。

それが東芝EMIのプロデューサーである武藤敏史です。

武藤敏史

これが勝負作になる!

武藤敏史さんは3rdシングルと4thシングルと合わせて『ルビーの指環』を3部作にしようと考えました。

そして作詞家に松本隆さんを起用することを決めたのです。

寺尾聰 病気歴

この起用には武藤敏史さんのこだわりが強く反映されていました。

武藤敏史

寺尾のイメージである「大人な感じ」を隆なら再現してくれる。

結果として第23回日本レコード大賞で、作詞賞、作曲賞、編曲賞を受賞することとなりました。

まとめ

『ルビーの指環』の誕生秘話についてまとめました。

どの作品が売れるのかを見極められるプロデューサーはすごいですね。

寺尾聰さんの今後の活動にも注目したいです。

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